なんでも道しるべ

広義の投資(子育て教育、英語教育、資産形成、NISA、iDeCo)に関する道しるべ!毎日19時に記事更新‼(たまに朝7時にも更新!?)

【学校崩壊の序章】解答が配られず、丸付けもしない「宿題」がある現実

学校でちょっと不思議なことが起きています。

私の感覚では考えられないのですが、先生の感覚だと考えられるのでしょうか?

演習問題というのは答え合わせをして意味があるものであり、答え合わせをしない問題なんて、やる意味があるのか?と不思議でなりません。

そんな不思議なことがまかり通るのだから、学校がダメだと言われるのかなと思います。

先生だけの問題ではなく、家庭の問題でもあると思いますが、そんなこと、私は知ったことではないです。

演習問題というのが、どういうものであり、どう扱うものであるのか、が重要です。

■宿題はやって当たり前?じゃない

学校からは宿題は毎日出されます。

それが当たり前だと思っています。

なぜなら、学校はインプット中心で演習不足が起きるからであり、さらに、強制的に復習をしなければ子どもは何もしないからです。

インプットとアウトプットを交互にサイクルを回すことで、知識は定着していき、発展的な問題に取り組める基礎を構築できるということは、常々言われてきたことです。

けれども、宿題をやってこない子が、かなりの数いるらしいです。

家庭の事情といえばそれまでであり、自分の子まで影響が来ないのであれば、うちはうち、よそはよそで成り立ちます。

私も宿題程度のことで、これほどまでの大問題が放置されるとは思いもよりませんでした。

■答えが配られない、丸付けもしない宿題

今回、記事にするほどの大問題とは何かというと、「宿題で出された演習問題に答えが配られない」という事件です。

先生の理屈からいうと、宿題のプリントに答えを配布すると、答えを丸写しする子がいるからだそうです。

では、学校で丸付けをするのか?と思うじゃないですか。

子どもに聞いてみると、「学校でも丸付けをしない」そうなのです。

じゃ、その演習問題って何のためにやるのか?という話ですよ。

f:id:anyguidepost:20190123165153j:plain

先生の本当の狙いまでは分かりませんが、演習問題のプリントを配って、答えが無い状態で考えることに意味があるとの考えなのかなと思います。

演習問題をやれば、答えは間違わないという先生の考えなのでしょうか。

それにしても、私の感覚では全く理解できません。

やはり、問題というのは、解答があり、解説があることで成り立っていると思うのです。

いくら教科書で調べてOKであったとしても、間違える問題は間違えます。

その時、すぐに解答で丸付けをして、修正していくというのが本来のあるべき姿ではないでしょうか。

■このような宿題に付き合わされる現実

このような演習問題のあるべき姿を変えるほどのヤバさが、今の学校にあるということです。

私はこの話を娘から聞いて、正直驚きましたし、学校崩壊へつながる現状なのではないか、と感じました。

そして、私の直感では、答えを配らないという暴挙をしても、やらない人はやらないと思うということです。

答えがあれば写すし、答えがなければ宿題忘れをする。これが現実だと思います。

それよりも、この問題点が我が娘にまで少々影響を及ぼしているのが許せないです。

学校の宿題であったとしても、それなりに時間は取られます。

学校の宿題をやることが必須なので、やらないという選択肢は我が家にはありません。

ただ、答えがない演習問題をやる意味があるのか?と思えるのです。

時間の無駄と言い切っても良いと思っています。

こんな事情に付き合わされる方がたまったものではありませんね。

■先生も大変だな同情します

教育というのは難しいと思います。

先生という職業に就いた優秀な人は、子どもが宿題をやってこない現実なんて想像していなかったと思います。

でも、現実には宿題をやってこない子がいます。

そして、家庭の事情なので、やってこない子には、やってこない理由があると思いますが、先生も入り込めない事情があるとすると、先生はどうしようもないです。

そこで出た方策が、「答えを配らない演習問題を宿題として出す」であれば、悲しいことですね。

■『自分の親はなぜ勉強させてくれなかったのだろう・・・』

小学6年ともなると、先生の言動が気になる子どもが増えるようです。

「あの子には優しい、あの子には厳しい、あの子の話はよく聞く、あの子の話は流す」等々。

娘も、友達がそのようなことを言っていたと私に教えてくれました。

それを聞いた私は「先生だって同じ人間なのだから、同じように教えていて、なぜこの子は理解できるのに、なぜこの子は理解できないのか?と思っているんじゃないかな。それが態度に出てきているんだと思う」と言いました。

本来なら、先生は誰に対しても平等に接するべきですし、家庭環境が違うので、勉強ができる、できない、の差は、本人の努力と違う次元であることもあり得ます。

ただ、親の在り方も含めて、このような家庭の差と本人の差が見えてくるというのは、なかなか難しいものだと感じます。

世の中、意外と「勉強ばかり言うと可哀そう」という考えが蔓延っています。

私からいうと、その考えの方が本人にとって可哀そうだと思えて仕方ありません。

歳を取ってから、『自分の親はなぜ勉強させてくれなかったのだろう・・・』と悩む人が大勢いるのですから。