「子どもが幸せになるには、親自身が幸せであるべきだ。」
こんなメッセージがありますが、これは偽善者が語る言葉だと思っています。
親が幸せであることは子どもにとっては喜ばしいことであり、それにより子どもが幸せに感じることはあるかもしれませんが、それを勘違いしている親が多すぎます。
結局は親としてやらなければならない現実から目をそらし、自分が幸せに生きることに逃げているという状況です。
そうなると、親が幸せであるために、子どもが不幸になるという構図だって成り立ちます。
したがって、親が幸せであるからといって、子どもが幸せであるかは別問題です。
なので、親自身が幸せであることは、子どもが幸せになるための要素ではないということです。
■「可哀そうに」というNGワード
子どもは意外と気にしないで生活しています。
というよりは、子どもは今の生活は全てであり、それが当たり前と思っているからです。
子どもにとって不幸なのは、自分の置かれている立場を理解していないこと、理解できる状況にないということです。
私が一番嫌いな言葉は、他人が自分の子に対して言う「可哀そうに」というセリフです。
最も良くある話は、勉強をさせている子にたいして、親に言っているのか、子に言っているのか分かりませんが、「可哀そうに」と発します。
何が可哀そうなのでしょう?
勉強をさせていることがそんなに可哀そうな行為なのですか?
何も教えてあげない方がいいのですか?
私が思うのは、何も教えてあげない、自分の立場を理解させてあげない大人に面倒をみられている子の方が可哀そうであり、哀れです。
■子育ての本質が分かっていない
大人である親がすべきことは、自分の経験を子どもに伝え、自分ができることを子どもにしてあげることです。
特に勉強に関しては、大抵の人は後になってから「もっと勉強しておけば良かった・・・」と嘆きます。
嘆いたときにはすでに遅く、年齢や学歴などでどうしようもできなくなってから嘆くのです。
それでは遅い。
そうならないように、教えてあげるのが親の役割なのですから。
それを「可哀そう」という安易な感覚だけで何も言わないのは、子育ての本質を分かっていないうえに、子供の将来のことを何も考えていない、あるいみ教育放棄です。
家庭によっては資金が無い、教育にかけるお金も時間もないというところもあるかもしれませんが、その限られた資産によってしっかりとやるのが親の責任というものです。
■子どもの本業は勉強
親の責任から逃げて、仕事や趣味や友人に逃避している人があまりにも多すぎます。
それが、日本を弱体化させ、そして、その人に育った子供はさらに不幸になるのです。
あまりにも分かっていない大人が多すぎます。
子どもがやるべき本業は勉強です。
もちろん、恋愛や部活、趣味や遊びなど他に興味があることが多いのも子どもではあるのですが、そんなことのために、本業から意識を背いているのは間違っています。
親がやるべきことをやって、それでも尚且つ、子ども自身が「やる気が出ない」とか「モチベーションが無い」などと言い訳をして何もしないのであれば、それは本人の責任なのかもしれませんが、そもそも、親が何も教えていないケースの方が多いでしょう。
そんな親からは、その程度の子どもしか育ちません。
■優秀な子が勝手に生まれる訳もなく
優秀な子どもをみると、周りの大人は勘違いしているのかもしれません。
本人の頑張りによってその子が優秀になったのだと。
もちろん、その子自身の頑張りがあってこその優秀さであるのは事実ですが、その頑張りが発揮される前には親の働きかけがあったのです。
働きかけには言葉だけが全てではありません。
確かにお金を出せば、家庭教師や塾が親の代わりになってくれることだってあります。
なので、声掛けをするのが嫌なのであれば、お金を出せばよいのです。
お金がなければ、頑張って声をかけるしかないですよね。
■自分自身のための生活は要注意
なんだか、周りを見ていると、間違った子育てをしている親が多いなと思います。
優秀な子が自然と生まれる訳がなく、きちんと教育をしているから、そのように育っているのです。
何もしないのに、そんなところに何かが生まれてくるような、そんな魔法のようなことがある訳がないです。
子どもがいるのにも関わらず、自分の生活が自分自身のための生活になっているのであれば、それは要注意ですね。
あとで後悔するのは子ども自身ですし、恨まれるのは親自身です。
もう少し真剣に子どもの将来を考えるべきなのではないかと感じ、本日は取り上げました。